「1年で1M、2年で2M、3年で3Mと成長しますし、地上部分と同じだけの深さに根を張ります」
K大学のM教授は講演会で熱く語っていた。
話の中心はシイ、タブ、カシ、つまりどんぐりの木の成長と環境に関することだった。
どんぐりはポット苗として芽を出したものを、地面に移植すればスクスクと成長し、根をしっかり張るので緑化には最適というものだった。
Aは講演会でその話を聞いたとき、あるアニメーションを思い出していた。
かなり前に観たものでストーリーなどはうろ覚えだったが、男が毎朝玄関の外にあるバケツから、浸してあったどんぐりを一掴み取ると、杖で地面に穴を開け、どんぐりを埋めると、何年か後に鬱蒼とした緑に囲まれる土地に変身し、多くの家族連れで賑わっている、というものだった。
どんぐりって面白いなぁ、とその時思ったものだったが、今度の講演会でますますその思いを強くした。
そして、あることが閃いた。
数ヶ月してどんぐりが地面に落ち始めると、Aは毎朝近所の公園を回って、山のようにどんぐりを拾い集めてきた。
そして、大きなバケツに水を張り、どんぐりを浸した。
同時に、ホームセンターからビニールの小さな鉢を購入し、ポット苗作りの準備を始めたのだった。
年を越し春になったら、およそ数百個のポット苗にどんぐりの芽が出てきた。
Aはその生命力に驚くとともに、M教授が言うように、1年で1Mといった調子で成長してくれることを期待した。
時期が来るまでAは、毎日水遣りをして、芽の成長を見守った。
苗が力強い味方に見えていた。
いよいよその時が来たとAは判断し、毎晩ポット苗を数本もって出かけて行った。
行き先は近所のショッピングモールだった。
元々は大手メーカーの工場があった場所だったが、大手デベロッパーの手で再開発が行われ、賑わいのあるショッピングモールになっていた。
再開発の話が持ち上がった時、Aは周辺住民と一緒に、市民が憩える緑化公園にするよう行政などに働きかけたが、結局どうにもならなかった。
行政にすれば、土日でも周辺の町から人が集まれば成功という判断なのだろうが、地元住民にとってはたまったものではなかった。
車の渋滞や人ごみで、町は汚れていくのだった。
毎朝、そのショッピングモールの脇を歩くAは、施設周辺にある緑地帯に何か木を植えたいと、常々考えていた。
そんな時、M教授の講演を聴いたのだった。
緑地と言っても、それほど頻繁に手入れされる訳ではないので死角になる部分に植えれば抜かれることもないと、Aは考えていた。
毎朝、緑地帯を見回って、その晩に苗を植える場所を決めていた。
そして今夜も10本ほどのポット苗をもって、あらかじめ決めた場所に行き、静かに移植の作業をした。
あれから1年経った。
100本以上植えた苗のうち、生命力があるものやショッピングモール側の人間が抜いたもの以外はすくすくと成長していた。
ショッピングモールには気づかれずに早く大きくなれ、そしてこのエリアを緑で埋め尽くしてくれ、そんな思いだった。
5年ほど経った時、ショッピングモールの周辺は鬱蒼とした緑に囲まれる緑地帯となり、そこに集う人達で賑わっていた。
ささやかな復習のつもりが、結局、ショッピングモールを利することになっていた。
Aのゲリラ活動は複雑な思いと共に終焉した。
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2010年4月19日月曜日
お掃除ボタン
終電間近だというのに、電車から降りる客が多かった。
金曜日の夜ともなると、電車も定刻どおりには走っていない。
酔客が原因なのか、乗り継ぎ電車の待ち合わせなどで、遅れることは、最近では当たり前になってきている。
「この不景気によくまあこんなに酔っ払った人間がいるもんだ」
改札に向かって歩きながら、Aは呟いた。
Aは仕事で遅くなり、アルコールは一滴も飲んでいなかった。
それだけに、幾分ひがみがあったかもしれない。
電車から降りた人間は、乗り換えで走る者、家路に向かって足早に歩く者など、蜘蛛の子を散らすように拡散していく。
一人暮らしで慌てることもないAは、ゆっくりと改札を出た。
と、その時、有人改札から怒声が聞こえてきた。
見ると、駅員と夜だけ配置される民間の警備会社の人間が、性質の悪い酔っ払いと思われる人間を相手にしていた。
深夜の駅舎に響く怒声だった。
この手の酔っ払いほど、酔いが醒めれば大人しい人間はいない。
酒の力を借りなければストレスを発散できないのだ。
その相手をさせられる方はたまったものじゃない。
このケースも、聞いていると無茶苦茶な話だった。
駅員の態度が気に食わないとか、自動改札の動きが早いとか遅いとか、支離滅裂だった。
弱った顔で相手をしている警備員は、よく見るとAの友人だった。
しかし、その場の雰囲気から声をかけることはせず、Aは家路についた。
数日後、友人のことが気になったAは電話してみた。
次の休日、Aは近所の喫茶店に入った。
友人は先に来て待っていた。
「待たせたかな?」
「そうでもないよ」
男は笑顔でAを迎えた。
「久しぶりに電話もらって驚いたよ」
「こっちも君が駅で警備してるとは驚いたよ」
「いろいろあってね、なかなか落ち着かないんだ」
男は暗に転職を繰り返していることをほのめかした。
「まあ、それはともかく、あの晩の酔っ払いには手を焼いてたようだね」
「ああ、あの手の人間は毎晩のようにいるよ。いつの時代にもいるのか、あるいは現代の象徴なのか、その辺は分からんが、理屈も何もあったもんじゃないから大変さ」
「どうすれば決着するんだ」
「相手の気が晴れるまで喋らせるが、どうしようもない時は警察を呼ぶことになっている」
「警察?」
「ああ、特に暴力を振るう相手にはそうすることが多いね」
「暴力を振るうというのは聞いたことがあるが、よくあるのか?」
「頻繁ではないが、たまにはね」
「君はやられたことがあるの?」
「何度かね」
「そりゃ大変な仕事だね」
男は珈琲を口に運んだ。
Aも一口飲んだ。
「そんな時は、まさか相手にできないんだろ、やられ損か?」
「まあ、そんなとこだね」
男は詳細に語ることを避けていた。
しかし、Aはあのような理不尽な行動をする酔客を、いくら酔ってるからといっても、許す気にはなれない性分だった。
「ちょっと、僕にアイデアがあるんだが…」
「アイデア?」
Aは男の耳に顔を近づけると囁いた。
「えっ!そんなことができるのか?」
「任せてくれ、以前から練っているアイデアでね、いい機会だから完成させるよ」
男とAは珈琲を飲み干して、店を出た。
1ヶ月が経った。
同じ喫茶店でAは男を待っていた。
約束したものを早く男に見せたくて、約束した時間より早く来ていた。
男が店に入ってきた。
表情が暗かった。
「待たせたかな?」
「いやそんなことはないが、どうした顔色が良くないな」
「ちょっと疲れてるのかもな、なにせ夜の勤務が長いから」
「昼間寝て、夜働くというのは、人間の体調を狂わすというからな」
「そうだな」
男は珈琲を注文した。
Aは男の前に箱を出した。
「できたぞ」
Aは箱を開けた。
「これか、意外に小さいな」
「ああ、最近の電子部品は集積度が高いから小さく出来る」
そこに、珈琲が運ばれてきた。
男は珈琲を一口飲んだ。
その時の男の表情に、安堵感のようなものがあったのをAは見た。
「これは君の仕事に役立つと思うよ」
「効果はどうなんだ?」
「実験は済んでいる、極めて良好だよ」
「使い方は?」
Aは男に、その携帯電話ほどの装置を手渡して、使い方を教えた。
操作はいたって簡単なものだった。
いくつかの初期設定をすれば、あとは装置の中央にある大きなボタンを押すだけだった。
「しかし、よくこんなものを作れるな」
「機械いじりとか発明が元々好きなんだ。それに君たちに害を及ぼす例の酔っ払いのような人間を、僕は嫌いだから、以前からこんな機械があればと思っていたのさ」
「なるほど」
「とにかくこれは君に進呈するから職場で役立ててくれ」
男はいつも通り、駅で夜勤についていた。
その晩は特に性質の悪い客はいなかった。
終電も行った後、改札のシャッターが下ろされた。
男は事務所に行き、現場上司の駅員にその日の状況を報告した。
「ああご苦労」
上司は男の顔も見ずに言った。
上司は部屋を出て行った。
男も後を追うように部屋を出た。
上司はトレイに入っていった。
男も後に続いた。
「なんだお前、気持ち悪いな、人の後から入ってくるよう…」
と言いかけたが、その時すでに上司の姿はなかった。
男の手には例の装置が握られていた。
男はボタンを押したばかりだった。
「効き目は抜群だな」
男は呟いた。
Aが作ったのは人間を瞬間に消し去る装置だった。
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金曜日の夜ともなると、電車も定刻どおりには走っていない。
酔客が原因なのか、乗り継ぎ電車の待ち合わせなどで、遅れることは、最近では当たり前になってきている。
「この不景気によくまあこんなに酔っ払った人間がいるもんだ」
改札に向かって歩きながら、Aは呟いた。
Aは仕事で遅くなり、アルコールは一滴も飲んでいなかった。
それだけに、幾分ひがみがあったかもしれない。
電車から降りた人間は、乗り換えで走る者、家路に向かって足早に歩く者など、蜘蛛の子を散らすように拡散していく。
一人暮らしで慌てることもないAは、ゆっくりと改札を出た。
と、その時、有人改札から怒声が聞こえてきた。
見ると、駅員と夜だけ配置される民間の警備会社の人間が、性質の悪い酔っ払いと思われる人間を相手にしていた。
深夜の駅舎に響く怒声だった。
この手の酔っ払いほど、酔いが醒めれば大人しい人間はいない。
酒の力を借りなければストレスを発散できないのだ。
その相手をさせられる方はたまったものじゃない。
このケースも、聞いていると無茶苦茶な話だった。
駅員の態度が気に食わないとか、自動改札の動きが早いとか遅いとか、支離滅裂だった。
弱った顔で相手をしている警備員は、よく見るとAの友人だった。
しかし、その場の雰囲気から声をかけることはせず、Aは家路についた。
数日後、友人のことが気になったAは電話してみた。
次の休日、Aは近所の喫茶店に入った。
友人は先に来て待っていた。
「待たせたかな?」
「そうでもないよ」
男は笑顔でAを迎えた。
「久しぶりに電話もらって驚いたよ」
「こっちも君が駅で警備してるとは驚いたよ」
「いろいろあってね、なかなか落ち着かないんだ」
男は暗に転職を繰り返していることをほのめかした。
「まあ、それはともかく、あの晩の酔っ払いには手を焼いてたようだね」
「ああ、あの手の人間は毎晩のようにいるよ。いつの時代にもいるのか、あるいは現代の象徴なのか、その辺は分からんが、理屈も何もあったもんじゃないから大変さ」
「どうすれば決着するんだ」
「相手の気が晴れるまで喋らせるが、どうしようもない時は警察を呼ぶことになっている」
「警察?」
「ああ、特に暴力を振るう相手にはそうすることが多いね」
「暴力を振るうというのは聞いたことがあるが、よくあるのか?」
「頻繁ではないが、たまにはね」
「君はやられたことがあるの?」
「何度かね」
「そりゃ大変な仕事だね」
男は珈琲を口に運んだ。
Aも一口飲んだ。
「そんな時は、まさか相手にできないんだろ、やられ損か?」
「まあ、そんなとこだね」
男は詳細に語ることを避けていた。
しかし、Aはあのような理不尽な行動をする酔客を、いくら酔ってるからといっても、許す気にはなれない性分だった。
「ちょっと、僕にアイデアがあるんだが…」
「アイデア?」
Aは男の耳に顔を近づけると囁いた。
「えっ!そんなことができるのか?」
「任せてくれ、以前から練っているアイデアでね、いい機会だから完成させるよ」
男とAは珈琲を飲み干して、店を出た。
1ヶ月が経った。
同じ喫茶店でAは男を待っていた。
約束したものを早く男に見せたくて、約束した時間より早く来ていた。
男が店に入ってきた。
表情が暗かった。
「待たせたかな?」
「いやそんなことはないが、どうした顔色が良くないな」
「ちょっと疲れてるのかもな、なにせ夜の勤務が長いから」
「昼間寝て、夜働くというのは、人間の体調を狂わすというからな」
「そうだな」
男は珈琲を注文した。
Aは男の前に箱を出した。
「できたぞ」
Aは箱を開けた。
「これか、意外に小さいな」
「ああ、最近の電子部品は集積度が高いから小さく出来る」
そこに、珈琲が運ばれてきた。
男は珈琲を一口飲んだ。
その時の男の表情に、安堵感のようなものがあったのをAは見た。
「これは君の仕事に役立つと思うよ」
「効果はどうなんだ?」
「実験は済んでいる、極めて良好だよ」
「使い方は?」
Aは男に、その携帯電話ほどの装置を手渡して、使い方を教えた。
操作はいたって簡単なものだった。
いくつかの初期設定をすれば、あとは装置の中央にある大きなボタンを押すだけだった。
「しかし、よくこんなものを作れるな」
「機械いじりとか発明が元々好きなんだ。それに君たちに害を及ぼす例の酔っ払いのような人間を、僕は嫌いだから、以前からこんな機械があればと思っていたのさ」
「なるほど」
「とにかくこれは君に進呈するから職場で役立ててくれ」
男はいつも通り、駅で夜勤についていた。
その晩は特に性質の悪い客はいなかった。
終電も行った後、改札のシャッターが下ろされた。
男は事務所に行き、現場上司の駅員にその日の状況を報告した。
「ああご苦労」
上司は男の顔も見ずに言った。
上司は部屋を出て行った。
男も後を追うように部屋を出た。
上司はトレイに入っていった。
男も後に続いた。
「なんだお前、気持ち悪いな、人の後から入ってくるよう…」
と言いかけたが、その時すでに上司の姿はなかった。
男の手には例の装置が握られていた。
男はボタンを押したばかりだった。
「効き目は抜群だな」
男は呟いた。
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2010年4月11日日曜日
死者の声を聞く男
死者の声を聞く男
深夜の2時過ぎ、昔風に言えば丑三つ時にあたるだろうか、Aは品川区の某寺の門をくぐった。
リュックを背負ったAは、暗闇の中を迷いも無く、ある方角に向かって歩いていた。
Aが向かったのはこの寺の裏にある墓地だった。
この寺は、江戸時代に品川沖で遭難した人や、鈴ヶ森で処刑された罪人、関東大震災で焼死した人の無縁墓地があることで有名だった。
もっとも普通の檀家の墓もたくさんある。
Aは、ある檀家の墓の前で立ち止まった。
手にした小さな懐中電灯で墓石に刻まれた文字を確認した。
「ここだ」
Aは呟くとしゃがんで、懐中電灯のスイッチを切り、リュックの中から小さな線香を出して火をつけた。
墓石の前に線香を置いて、合掌した。
かなり長い時間、合掌していた。
30分ほども経っただろうか、男は手を緩め、目を開けた。
そして、しゃべり始めた。
「こんばんは、1年ぶりですね、お元気でしたか?」
なんと、Aは墓石に向かってしゃべっていた。
「ああ、なんとかな」
「ご機嫌が悪そうですね、どうしました?」
誰としゃべっているのだろうか、相手は見えない。
「命日だってのに誰も来てないんだ」
Aは、月明かりでぼんやりと照らされた墓石の前を見た。
花は無く、線香を炊いた跡もない。
墓石も汚かった。
遺族が誰も来ていないという証だった。
「そりゃお気の毒ですね」
Aは社交辞令として言った。
「だから僕が来てるんじゃないですか、ゆっくりお話しましょうよ」
「そうだな、あんたのお陰で気が晴れるよ」
Aは、自分に霊感があることを知ってから、このように、命日を迎えた霊と1年に1回、墓地で話をすることをボランティア活動としてやっていた。
しかもその多くの遺族が墓所の清掃にも、お盆にも来ないという霊ばかりだった。
「まあ、ご遺族に対する不満もあるでしょうが、霊界の方はどうなんですか?」
「こっちはこっちで大変さ、我儘な連中が多くてな、問題山積だよ」
「そうなんですか、どんな問題があるんですか?」
「一言でいうと、生きてた頃の煩悩が抜け切れてないんだな」
「煩悩?」
「ああ、言い換えれば欲望かな、霊界に来てまで肩書きがどうとか、序列がどうとか、恋愛がどうとか、そんなことに執着する連中が多くてな」
「それじゃ、現世の人間界と同じじゃないですか?」
「ああ、まったくそのとおりさ、そんなことで諍い起こして、刃傷沙汰になっても、これ以上死ぬわけにいかねぇしな、いい加減にして欲しいよ」
「なんか、現世も、そちらの世界も、あんまり変わらないみたいですね」
「かもな、この間なんか面白いって言っちゃ問題かもしれんが、でも面白いことがあったんだぜ」
「へー、何なんです」
「もう4・5年前になるかな、過労死っていうのか、仕事のし過ぎでな、くも膜下出血で死んだ男がこっちに来たんだ」
「過労死ですかぁ」
「ああ、上司にかなりこき使われたらしいんだが、面白いのここからさ」
Aは身を乗り出していた。
「1ヶ月ほど前にな、その上司が来たんだよ」
「そのこき使った上司がですか?」
「ああ、ご対面したんだ」
「複雑ですね」
「まあな、その時の雰囲気はなんとも言えず、面白かったなぁ」
「当事者はそうでもないでしょ」
「後からきた上司はな。先に過労死した奴は、こっちは大先輩だからな、これからが見ものさ」
「意地悪ですね」
「そっちの世界じゃ、こき使って死ぬこともあるだろうが、こっちは死なないからね、いくらいじめても」
「それって過労死した元部下が、後から来た上司にエンドレスの復讐をするってことですか?」
「そんな雰囲気だよ」
「その上司、死んだこと後悔してるんでしょうね?」
「たぶんな、でも身から出た錆ってとこさ」
「なんか教訓じみてますね」
「そうだな、現世でも仲良くしてれば、こっち来ても仲良く幸せに過ごせるのにな」
「考えさせられる話ですね」
「おっと、そろそろお天道様が顔を出すぞ」
「そんな時間ですか」
そろそろ明け方が近づいてきていた。
「じゃ、今年はこの辺で」
「ああ、ありがとよ、来年も楽しみにしてるから、というより早くこっち来いよ」
「いや、今の話聞くと、まだこっちで地味に暮らしてる方が良い様な気がしますよ」
「そりゃそうだな、今の時間、大事にしろよ」
「はい、ありがとうございます」
Aは墓石に頭を下げた。
周囲が明るくなる前に墓地を出ないと、不法侵入で捕まる恐れがあったので、急いで寺の外に出た。
国道に出て品川駅に向かって歩きながら考えていた。
「こっちもあっちもドロドロして大変なんだなぁ、とにかく今を精一杯生きよう」
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深夜の2時過ぎ、昔風に言えば丑三つ時にあたるだろうか、Aは品川区の某寺の門をくぐった。
リュックを背負ったAは、暗闇の中を迷いも無く、ある方角に向かって歩いていた。
Aが向かったのはこの寺の裏にある墓地だった。
この寺は、江戸時代に品川沖で遭難した人や、鈴ヶ森で処刑された罪人、関東大震災で焼死した人の無縁墓地があることで有名だった。
もっとも普通の檀家の墓もたくさんある。
Aは、ある檀家の墓の前で立ち止まった。
手にした小さな懐中電灯で墓石に刻まれた文字を確認した。
「ここだ」
Aは呟くとしゃがんで、懐中電灯のスイッチを切り、リュックの中から小さな線香を出して火をつけた。
墓石の前に線香を置いて、合掌した。
かなり長い時間、合掌していた。
30分ほども経っただろうか、男は手を緩め、目を開けた。
そして、しゃべり始めた。
「こんばんは、1年ぶりですね、お元気でしたか?」
なんと、Aは墓石に向かってしゃべっていた。
「ああ、なんとかな」
「ご機嫌が悪そうですね、どうしました?」
誰としゃべっているのだろうか、相手は見えない。
「命日だってのに誰も来てないんだ」
Aは、月明かりでぼんやりと照らされた墓石の前を見た。
花は無く、線香を炊いた跡もない。
墓石も汚かった。
遺族が誰も来ていないという証だった。
「そりゃお気の毒ですね」
Aは社交辞令として言った。
「だから僕が来てるんじゃないですか、ゆっくりお話しましょうよ」
「そうだな、あんたのお陰で気が晴れるよ」
Aは、自分に霊感があることを知ってから、このように、命日を迎えた霊と1年に1回、墓地で話をすることをボランティア活動としてやっていた。
しかもその多くの遺族が墓所の清掃にも、お盆にも来ないという霊ばかりだった。
「まあ、ご遺族に対する不満もあるでしょうが、霊界の方はどうなんですか?」
「こっちはこっちで大変さ、我儘な連中が多くてな、問題山積だよ」
「そうなんですか、どんな問題があるんですか?」
「一言でいうと、生きてた頃の煩悩が抜け切れてないんだな」
「煩悩?」
「ああ、言い換えれば欲望かな、霊界に来てまで肩書きがどうとか、序列がどうとか、恋愛がどうとか、そんなことに執着する連中が多くてな」
「それじゃ、現世の人間界と同じじゃないですか?」
「ああ、まったくそのとおりさ、そんなことで諍い起こして、刃傷沙汰になっても、これ以上死ぬわけにいかねぇしな、いい加減にして欲しいよ」
「なんか、現世も、そちらの世界も、あんまり変わらないみたいですね」
「かもな、この間なんか面白いって言っちゃ問題かもしれんが、でも面白いことがあったんだぜ」
「へー、何なんです」
「もう4・5年前になるかな、過労死っていうのか、仕事のし過ぎでな、くも膜下出血で死んだ男がこっちに来たんだ」
「過労死ですかぁ」
「ああ、上司にかなりこき使われたらしいんだが、面白いのここからさ」
Aは身を乗り出していた。
「1ヶ月ほど前にな、その上司が来たんだよ」
「そのこき使った上司がですか?」
「ああ、ご対面したんだ」
「複雑ですね」
「まあな、その時の雰囲気はなんとも言えず、面白かったなぁ」
「当事者はそうでもないでしょ」
「後からきた上司はな。先に過労死した奴は、こっちは大先輩だからな、これからが見ものさ」
「意地悪ですね」
「そっちの世界じゃ、こき使って死ぬこともあるだろうが、こっちは死なないからね、いくらいじめても」
「それって過労死した元部下が、後から来た上司にエンドレスの復讐をするってことですか?」
「そんな雰囲気だよ」
「その上司、死んだこと後悔してるんでしょうね?」
「たぶんな、でも身から出た錆ってとこさ」
「なんか教訓じみてますね」
「そうだな、現世でも仲良くしてれば、こっち来ても仲良く幸せに過ごせるのにな」
「考えさせられる話ですね」
「おっと、そろそろお天道様が顔を出すぞ」
「そんな時間ですか」
そろそろ明け方が近づいてきていた。
「じゃ、今年はこの辺で」
「ああ、ありがとよ、来年も楽しみにしてるから、というより早くこっち来いよ」
「いや、今の話聞くと、まだこっちで地味に暮らしてる方が良い様な気がしますよ」
「そりゃそうだな、今の時間、大事にしろよ」
「はい、ありがとうございます」
Aは墓石に頭を下げた。
周囲が明るくなる前に墓地を出ないと、不法侵入で捕まる恐れがあったので、急いで寺の外に出た。
国道に出て品川駅に向かって歩きながら考えていた。
「こっちもあっちもドロドロして大変なんだなぁ、とにかく今を精一杯生きよう」
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2010年4月3日土曜日
特異体質の女
特異体質の女
そろそろ半分だな、とAは目の前のパネルに表示されている時計を見た。
スポーツジムに通うAは、数種類の筋トレをした後、ステッパーを40分やることを自分のプログラムと決めていた。
最近の機器は昔と違って、たくさんの運動メニューがあり、カロリー表示もあり、さらにテレビが付いているので、飽きることがない。
そのうえ、ジムの壁面にも大きなモニターがあり、常時テレビ映像が流されているので、運動をしながら複数の映像を同時に楽しめるようになっている。
Aが使うステッパーの前にはランニングマシンがあるが、ステッパーに乗った時の目線が一段高い位置になるので、ランニングマシンを使う人を後ろから見下ろす形になっている。
そのため、Aはステッパーを使っている時、壁面の大型モニターと目の前の個別モニターの他に、ランニングマシンを使う人の後姿を楽しむことができた。
男の後姿に興味はないが、女の後姿には、当然興味があった。
Aがジムに行く時間はほぼ決まっているので、同じ時間帯に来る人達を幾度となく見かけることになる。
そんな常連さんの中に、気になる女がいた。
スレンダーな女でエクササイズマニアのようなタイプだった。
筋トレもマシンよりはダンベルなどのウエイトを使うタイプで、かなり年季が入ったアスリートといった印象だ。
Aがステッパーをやる時は、その女がランニングマシンをやる時と重なるので、ジムに行く日はその女の後姿を見ることができた。
女は今日も走っていた。
トレーニングウェアにじっとりと汗が滲んでいた。
俺はあと20分だが、彼女はどの位かな、などと考えながら女の太ももからふくらはぎにかけて舐めるように視線を動かした。
体脂肪率も低そうな無駄の無い筋肉質の身体だった。
ちょっとお知り合いになりたいもんだ、とAは女の後姿に視線を落としながらステッパーで汗をかいていた。
ジムがあるビルの隣にはチェーン店の珈琲ショップがあるので、Aは帰りによく立ち寄って珈琲を飲んだ。
ある日、カウンターで飲んでいると例の女が入ってきた。
目線が合った。
女もAを意識しているようだった。
Aは思い切って声をかけた。
「こんにちは、ジムに通われてる方ですよね?」
「ええ」
女の顔に笑みがあった。
それをきっかけにAは女と、ジムでも声を掛け合うようになっていた。
ある日、Aはある事に気づいた。
以前見ていた女の胸は、どちらかといえば貧乳タイプだったのだが、Aと相対しているときの女の胸はやや膨らみをもっていた。
気のせいなのかな、と思いつつもAの意識の中に違和感として残った。
徐々に二人の間の距離は縮まり、ジムの帰りに一緒に珈琲ショップに立ち寄ることが日課になっていた。
ある時Aは女に訊いた。
「なんで俺が声をかけたとき好意を持った対応したのかな?」
Aは女の顔を見て、
「無視されるかと思ったよ」
「身体が反応したのよ」
女は微笑を浮かべながら応えた。
「身体が反応した?」
「そう、私ね、自分の感情で異性を好きになるとか嫌いになるということがないの」
「どういうこと?」
「大きな声では言えないけど、自分にとって大丈夫な人、安心できる人ってことね、それに、付き合ってもいい人と向かい合うと、乳房が大きくなるよ」
「はい」
Aの声が上ずった。
「ほら」
と言って女はAの手をとって自分の胸に重ねた。
確かにあの貧乳からは想像できない大きさだった。
その時Aは、この女と付き合うべきかどうか一瞬逡巡したが、せっかく付き合い始めたことだし、とことん付き合うか、と覚悟を決めた。
そして、1ヵ月後。
Aと女はラブホテルの一室に居た。
女がシャワーを浴びている間、Aはベッドに横になり、意外に早くここまで来たな、と1ヶ月前を振り返っていた。
やや珍しい体質を持った女だったが、普段付き合うには気持ちの良い女だった。
女がシャワールームから戻り、二人の営みが静かに始まった。
女の胸にAの顔が密着するように、女はAを自分に引き寄せた。
興奮した女の胸は豊胸状態だったが、徐々にその様子が変化してきた。
乳房が筋肉化していたのだった。
しばらくすると女の全身の筋肉が2~3倍に膨れ上がり、Aを抱擁する力も増していた。
興奮している女は腕の力を緩めようとしなかった。
Aは女の腕の中で息苦しくなり、呻き始めたが、興奮する女の耳には届かなかった。
額の血管が強く浮き出てきたAの顔色が青ざめてきた。
Aの手は必死で女の腕を解こうともがいていたが、何の役にも立たなかった。
しばらくして女の腕の中で鈍い音がした。
30分ほども経っただろうか、女が興奮から醒めてきた。
女の胸の上には首の骨が折れたAが横たわっていた。
「またやっちゃた」
女は呟いた。
「これで5人目かぁ」
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発行元:飄現舎 代表 木村剛
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そろそろ半分だな、とAは目の前のパネルに表示されている時計を見た。
スポーツジムに通うAは、数種類の筋トレをした後、ステッパーを40分やることを自分のプログラムと決めていた。
最近の機器は昔と違って、たくさんの運動メニューがあり、カロリー表示もあり、さらにテレビが付いているので、飽きることがない。
そのうえ、ジムの壁面にも大きなモニターがあり、常時テレビ映像が流されているので、運動をしながら複数の映像を同時に楽しめるようになっている。
Aが使うステッパーの前にはランニングマシンがあるが、ステッパーに乗った時の目線が一段高い位置になるので、ランニングマシンを使う人を後ろから見下ろす形になっている。
そのため、Aはステッパーを使っている時、壁面の大型モニターと目の前の個別モニターの他に、ランニングマシンを使う人の後姿を楽しむことができた。
男の後姿に興味はないが、女の後姿には、当然興味があった。
Aがジムに行く時間はほぼ決まっているので、同じ時間帯に来る人達を幾度となく見かけることになる。
そんな常連さんの中に、気になる女がいた。
スレンダーな女でエクササイズマニアのようなタイプだった。
筋トレもマシンよりはダンベルなどのウエイトを使うタイプで、かなり年季が入ったアスリートといった印象だ。
Aがステッパーをやる時は、その女がランニングマシンをやる時と重なるので、ジムに行く日はその女の後姿を見ることができた。
女は今日も走っていた。
トレーニングウェアにじっとりと汗が滲んでいた。
俺はあと20分だが、彼女はどの位かな、などと考えながら女の太ももからふくらはぎにかけて舐めるように視線を動かした。
体脂肪率も低そうな無駄の無い筋肉質の身体だった。
ちょっとお知り合いになりたいもんだ、とAは女の後姿に視線を落としながらステッパーで汗をかいていた。
ジムがあるビルの隣にはチェーン店の珈琲ショップがあるので、Aは帰りによく立ち寄って珈琲を飲んだ。
ある日、カウンターで飲んでいると例の女が入ってきた。
目線が合った。
女もAを意識しているようだった。
Aは思い切って声をかけた。
「こんにちは、ジムに通われてる方ですよね?」
「ええ」
女の顔に笑みがあった。
それをきっかけにAは女と、ジムでも声を掛け合うようになっていた。
ある日、Aはある事に気づいた。
以前見ていた女の胸は、どちらかといえば貧乳タイプだったのだが、Aと相対しているときの女の胸はやや膨らみをもっていた。
気のせいなのかな、と思いつつもAの意識の中に違和感として残った。
徐々に二人の間の距離は縮まり、ジムの帰りに一緒に珈琲ショップに立ち寄ることが日課になっていた。
ある時Aは女に訊いた。
「なんで俺が声をかけたとき好意を持った対応したのかな?」
Aは女の顔を見て、
「無視されるかと思ったよ」
「身体が反応したのよ」
女は微笑を浮かべながら応えた。
「身体が反応した?」
「そう、私ね、自分の感情で異性を好きになるとか嫌いになるということがないの」
「どういうこと?」
「大きな声では言えないけど、自分にとって大丈夫な人、安心できる人ってことね、それに、付き合ってもいい人と向かい合うと、乳房が大きくなるよ」
「はい」
Aの声が上ずった。
「ほら」
と言って女はAの手をとって自分の胸に重ねた。
確かにあの貧乳からは想像できない大きさだった。
その時Aは、この女と付き合うべきかどうか一瞬逡巡したが、せっかく付き合い始めたことだし、とことん付き合うか、と覚悟を決めた。
そして、1ヵ月後。
Aと女はラブホテルの一室に居た。
女がシャワーを浴びている間、Aはベッドに横になり、意外に早くここまで来たな、と1ヶ月前を振り返っていた。
やや珍しい体質を持った女だったが、普段付き合うには気持ちの良い女だった。
女がシャワールームから戻り、二人の営みが静かに始まった。
女の胸にAの顔が密着するように、女はAを自分に引き寄せた。
興奮した女の胸は豊胸状態だったが、徐々にその様子が変化してきた。
乳房が筋肉化していたのだった。
しばらくすると女の全身の筋肉が2~3倍に膨れ上がり、Aを抱擁する力も増していた。
興奮している女は腕の力を緩めようとしなかった。
Aは女の腕の中で息苦しくなり、呻き始めたが、興奮する女の耳には届かなかった。
額の血管が強く浮き出てきたAの顔色が青ざめてきた。
Aの手は必死で女の腕を解こうともがいていたが、何の役にも立たなかった。
しばらくして女の腕の中で鈍い音がした。
30分ほども経っただろうか、女が興奮から醒めてきた。
女の胸の上には首の骨が折れたAが横たわっていた。
「またやっちゃた」
女は呟いた。
「これで5人目かぁ」
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2010年3月28日日曜日
ジェネリック医薬品の秘密
ジェネリック医薬品の秘密
医療費の増加に頭を悩ませている政府は、医療機関で処方される薬をできるだえジェネリック医薬品に替えるべく、医療報酬制度の改定を進めている。
ジェネリック医薬品を使う方が報酬が高くなる仕組み作りをしているのだ。
つまり飴とムチの関係だ。
ジェネリック医薬品メーカーは当然この流れを喜んで見守っているが、まったく関係のない企業が、この流れを注視していた。
----
Aは普段より早く起きた。
社会人になってから12年間勤めてきた会社を人間関係の問題で辞め、外資系のベンチャー企業に転職したばかりだったから、心機一転のつもりで早く会社に行こうと早起きしたのだった。
新しい会社、B社は、バイオ関連の研究や医療関連の新しいシーズを調査している会社だ。
親会社は欧州に拠点を持つ総合エンジニアリング会社を核にしたコングロマリットで、これまでも世界各国(とりわけ中東やアフリカなど)で大規模な案件を手がけてきていた。
さらに、親会社は各国政府とのよからぬ噂が絶えないことでも有名だったが、自分がいるベンチャーはそれに比べれば米粒ほどの規模だから、気にはならなかった。
新会社は日本で設立されてまだ間もないため、スタッフは少なかった。
定刻より1時間前に着いたが、1番手は社長のM氏だった。
さすがベンチャーの経営者は違うな、とAは思った。
「おはようございます」
「おはようございます、早いですね」
「はい、この会社ではまだ新人ですから」
「最初からダッシュすると後で息切れするから、自分にとって適度なスピードをキープするようにね」
「はい、ありがとうございます」
以前勤めていた会社とは違って、精神論よりも合理性が勝っていると、Aは感じた。
この会社でのAの仕事は、日本の医薬品業界の相関関係を調べることだった。
日本では、医療機関に医薬品を販売する場合、医薬品メーカーが直接販売するより、いくつかの問屋を通して販売するケースが主流だ。
これは医薬品だけでなく、医療機器も同様だった。
旧態依然とした仕組みのようだが、医療機関にすれば、忙しい時にいくつもあるメーカーの人間に頻繁に来られても困るし、たくさんある医薬品の情報を、無駄なく合理的にできるだけ多く知る必要もあるので、問屋経由の方が都合がよかった。
それだけ、問屋(のスタッフ)には専門性が求められているが、メーカーより優位にたったビジネスが展開できるので業界での地位は高かった。
Aはそんな問屋への調査を始めていた。
B社は今後日本で利用が促進されるジェネリック医薬品を、インドの会社と共同で製造販売していくプロジェクトを進めていたのだ。
その販路を開拓する目的での調査だった。
「問屋とメーカーの関係についてのレポートはいつ上がりますか?」
M氏は、Aに調査状況をたずねた。
「来週末には提出いたします」
「分かりました、よろしくお願いしますね」
Aは問屋のひとつであるP社の人間から、業界や薬のことを教えてもらっていた。
「新薬が初めて市場に出た後には市販後調査があって、安全性や副作用などの調査が行われます」
「ジェネリックでもですか?」
「そうです、ジェネリックでもその調査の結果次第では市場から撤退するものもありますよ」
「そうなんですか」
Aはこの話になんとなく疑問を感じていた。
それが何かはすぐに分からなかったが、ある日、自分が通うクリニックのドクターと話していて、疑問の中身が分かった。
「先生はジェネリックをあまり処方されないようですが、何故です?」
「ジェネリックと言ってもね、100%情報が開示されていて、100%のコピー薬という訳ではないからさ」
「と言うと?」
「薬にも、料理と一緒で材料を結びつけるツナギが必要なんだが、その情報は開示されていない、と言うことは、ジェネリックではその部分が独自の技術になってくる、ということは100%のコピーではないから、安全性や副作用の心配がある、ということさ」
「そうなんですか、じゃ全くの新薬ですね」
「そういうこと、だから国がジェネリックを促進してるけど、俺は安全性が確認できてから使うよ」
Aの疑問は氷解した。
Aはレポートをまとめていた。
何度かプリントアウトして、見直しては書き直し、不要な書類をシュレッダーで裁断するという作業を繰り返していた。
社内では、秘密保持のために不要な書類はシュレッダーで裁断することになっていた。
その日は、M氏も大量の書類を裁断していた。
分厚ファイルだった。
AはM氏の作業が終わるの待って自分の書類をシュレッダーにかけた。
その時、Aは機械の下に落ちている1枚の書類に気が付いた。
多分、M氏が処理し損なったものだと思った。
M氏はすでに外出して留守だったので、後で確認してから処理しようと拾い上げた。
書類はレターサイズのものでいかにも外国から来たというような体裁だった。
文面はもちろん英語だったが、書類のタイトルが気になった。
「ジェネリックによるマインドコントロールプロジェクト」というものだった。
書類は一部なので全体像は不明だが、ジェネリック医薬品を使ってなんらかのマインドコントロールを謀るというもののようで、医薬品を構成する成分について書かれていた。
しばらく、その書類を見ながら思案していたが、ふと、クリニックのドクターが言ったことを思い出した。
「ツナギは独自の技術で…」
Aは納得した。
ツナギに副作用がなくて常習性があるような薬物を使えば、一種の麻薬もできるし、精神をある方向に誘導することだった不可能ではないだろう、Aはそう理解した。
そう言えば、親会社は…。
Aの胸に暗雲が垂れこめ始めた。
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医療費の増加に頭を悩ませている政府は、医療機関で処方される薬をできるだえジェネリック医薬品に替えるべく、医療報酬制度の改定を進めている。
ジェネリック医薬品を使う方が報酬が高くなる仕組み作りをしているのだ。
つまり飴とムチの関係だ。
ジェネリック医薬品メーカーは当然この流れを喜んで見守っているが、まったく関係のない企業が、この流れを注視していた。
----
Aは普段より早く起きた。
社会人になってから12年間勤めてきた会社を人間関係の問題で辞め、外資系のベンチャー企業に転職したばかりだったから、心機一転のつもりで早く会社に行こうと早起きしたのだった。
新しい会社、B社は、バイオ関連の研究や医療関連の新しいシーズを調査している会社だ。
親会社は欧州に拠点を持つ総合エンジニアリング会社を核にしたコングロマリットで、これまでも世界各国(とりわけ中東やアフリカなど)で大規模な案件を手がけてきていた。
さらに、親会社は各国政府とのよからぬ噂が絶えないことでも有名だったが、自分がいるベンチャーはそれに比べれば米粒ほどの規模だから、気にはならなかった。
新会社は日本で設立されてまだ間もないため、スタッフは少なかった。
定刻より1時間前に着いたが、1番手は社長のM氏だった。
さすがベンチャーの経営者は違うな、とAは思った。
「おはようございます」
「おはようございます、早いですね」
「はい、この会社ではまだ新人ですから」
「最初からダッシュすると後で息切れするから、自分にとって適度なスピードをキープするようにね」
「はい、ありがとうございます」
以前勤めていた会社とは違って、精神論よりも合理性が勝っていると、Aは感じた。
この会社でのAの仕事は、日本の医薬品業界の相関関係を調べることだった。
日本では、医療機関に医薬品を販売する場合、医薬品メーカーが直接販売するより、いくつかの問屋を通して販売するケースが主流だ。
これは医薬品だけでなく、医療機器も同様だった。
旧態依然とした仕組みのようだが、医療機関にすれば、忙しい時にいくつもあるメーカーの人間に頻繁に来られても困るし、たくさんある医薬品の情報を、無駄なく合理的にできるだけ多く知る必要もあるので、問屋経由の方が都合がよかった。
それだけ、問屋(のスタッフ)には専門性が求められているが、メーカーより優位にたったビジネスが展開できるので業界での地位は高かった。
Aはそんな問屋への調査を始めていた。
B社は今後日本で利用が促進されるジェネリック医薬品を、インドの会社と共同で製造販売していくプロジェクトを進めていたのだ。
その販路を開拓する目的での調査だった。
「問屋とメーカーの関係についてのレポートはいつ上がりますか?」
M氏は、Aに調査状況をたずねた。
「来週末には提出いたします」
「分かりました、よろしくお願いしますね」
Aは問屋のひとつであるP社の人間から、業界や薬のことを教えてもらっていた。
「新薬が初めて市場に出た後には市販後調査があって、安全性や副作用などの調査が行われます」
「ジェネリックでもですか?」
「そうです、ジェネリックでもその調査の結果次第では市場から撤退するものもありますよ」
「そうなんですか」
Aはこの話になんとなく疑問を感じていた。
それが何かはすぐに分からなかったが、ある日、自分が通うクリニックのドクターと話していて、疑問の中身が分かった。
「先生はジェネリックをあまり処方されないようですが、何故です?」
「ジェネリックと言ってもね、100%情報が開示されていて、100%のコピー薬という訳ではないからさ」
「と言うと?」
「薬にも、料理と一緒で材料を結びつけるツナギが必要なんだが、その情報は開示されていない、と言うことは、ジェネリックではその部分が独自の技術になってくる、ということは100%のコピーではないから、安全性や副作用の心配がある、ということさ」
「そうなんですか、じゃ全くの新薬ですね」
「そういうこと、だから国がジェネリックを促進してるけど、俺は安全性が確認できてから使うよ」
Aの疑問は氷解した。
Aはレポートをまとめていた。
何度かプリントアウトして、見直しては書き直し、不要な書類をシュレッダーで裁断するという作業を繰り返していた。
社内では、秘密保持のために不要な書類はシュレッダーで裁断することになっていた。
その日は、M氏も大量の書類を裁断していた。
分厚ファイルだった。
AはM氏の作業が終わるの待って自分の書類をシュレッダーにかけた。
その時、Aは機械の下に落ちている1枚の書類に気が付いた。
多分、M氏が処理し損なったものだと思った。
M氏はすでに外出して留守だったので、後で確認してから処理しようと拾い上げた。
書類はレターサイズのものでいかにも外国から来たというような体裁だった。
文面はもちろん英語だったが、書類のタイトルが気になった。
「ジェネリックによるマインドコントロールプロジェクト」というものだった。
書類は一部なので全体像は不明だが、ジェネリック医薬品を使ってなんらかのマインドコントロールを謀るというもののようで、医薬品を構成する成分について書かれていた。
しばらく、その書類を見ながら思案していたが、ふと、クリニックのドクターが言ったことを思い出した。
「ツナギは独自の技術で…」
Aは納得した。
ツナギに副作用がなくて常習性があるような薬物を使えば、一種の麻薬もできるし、精神をある方向に誘導することだった不可能ではないだろう、Aはそう理解した。
そう言えば、親会社は…。
Aの胸に暗雲が垂れこめ始めた。
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2010年3月21日日曜日
心の定食屋
心の定食屋
横浜の本牧ふ頭には多くの倉庫があり、無数のコンテナが置かれている。
平日はひっきりなしに走るトレーラーで賑わっているが、休日ともなると釣り人くらいしか見当たらないほど静かだ。
この辺りには、埠頭で働く人達のためにいくつもの食堂があるが、漁港もあるためか、魚介類の献立が多い。
しかも、こじんまりとした家庭的な食堂が多いのだ。
この埠頭の倉庫で働く作業員のAは、そんな食堂を食べ歩くのを楽しみにしている中年の独身男だ。
魚料理が好きなAには好都合な立地だった。
長い間、定期的に店を回っているので、本牧ふ頭の食堂は全て制覇していた。
しかし、場所が場所だけに新規の店が出ることもなく、Aにしてみればややマンネリ化した食堂巡りになってきていた。
とは言え、独身でこれといった趣味もない身では、本牧ふ頭という限定エリアの食堂の味を楽しむという行動は止められなかった。
唯一救いがあるとすれば、魚介類の中身が季節によって変わるので、それなりの変化は楽しめることだった。
ある平日の晩、予定外の残業で、しかも思ったより長引いたため食堂に行きそこねたAは、コンビニで弁当でも買って帰ろうと会社を出た。
Aは家が近いので自転車で通っていた。
遅くなったので、いつものルートとは別の道を走っていたら、見たことのない看板が目に入ってきた。
最近この道を通らないから、新しい飲み屋でもできたのかと思って看板を見た。
すると、その看板は決して新しいものではなかった。
薄汚れて、ところどころ塗料もはげていた。
文字はかすれていて、よく読めなかった。
初めて見たので、わざとこんな作りにしているのかと思った。
最近の飲み屋には昭和初期の雰囲気を演出するために、わざと汚した外装、内装にする店もあるからだった。
Aは、コンビニで弁当買うよりこの店を試したほうが面白いと思って自転車を降りた。
扉を開けた。
客はいなかった。
店は思ったより明るかった。
4人掛けのテーブル席が2卓に、カウンターがあるだけの小さな店だ。
カウンターの中には中年の女が一人だけだった。
「いらっしゃい」
店に入った瞬間、明るく声をかけてきた。
「誰もいないからよかったカウンターに座って」
女は、人懐っこく話した。
どこかに懐かしさを感じた。
Aは、もとよりカウンターが好きなので一番端に座った。
「何か飲みます?」
「それともご飯?」
「じゃ、熱燗を1本、2合で」
「お酒が先ね、はい、ちょっと待っててね」
と言いながら、お通しを出してきた。
刺身の残り(と思われるもの)を酢味噌で和えたものだった。
Aの好物だった。
一口つまんだ。
美味かった。
味は、A好みだった。
酒を待つ間、Aは女に店のことを聞こうと思った。
「この店はいつからやってます?」
「もう4―5年になるかしらね」
「自分、この辺りで働いてるんだけど、気が付かなかった」
「この店はそういう店なのよ」
「そういう店って?」
「はい、お酒、ちょうどいい燗よ」
そう言うと女はAに酒を注いだ。
Aはゆっくりと呑んだ。
「そういう店ってどういうことなんです?」
「あなたにとって必要な時だけ、あなたには見えるのよ、この店が」
「はあぁ」
「あなた今夜残業で疲れてるでしょ、しかも、予定外の残業だったから、不満がいっぱいなのよね」
「どうしてそんなことが…」
確かに、予定外の残業だったが、そんなことはよくあることなので、気にはしていないが、問題は予想よりも時間がかかったことだった。そのことに腹が立っていたのだ。
「これまでのあなたなら、そんな時でも平気で過ごせるんだけど、最近のあなたにはちょっとした心境の変化があって…」
女を言葉を止めて、煮物の盛り合わせを出した。
「あなたのお母さんの味に近いわよ」
「お袋?」
Aの母親は10年ほど前に他界していたが、母子家庭だったAは母親が作る料理の味が忘れられなくて、いつも懐かしんでいた。
それが独身でいる理由のひとつでもあった。
「年のせいか、そろそろ結婚するか、それとも独身のまま過ごすか、ちょっと迷いがあるのね」
図星だった。
「そんな時に、真剣に相談できる相手がいなかから、余計に迷いというか悩みが深くなってしまって、最近ちょっと人恋しいんでしょ」
これも図星だった。
「なんでそんなことが分かるんだ?」
「そんなことは気にしなくていいのよ、あなたに必要だから、ここにいるの」
「でも、あんた誰なの?」
「う~ん、何ていえばいいのかな、今のあなたに必要な人として、私がここにいる、ただそれだけのことね」
答えにはなっていないが、このことはいくら話しても噛みあわないと思って、Aは話題を少し変えた。
「でも、店に入ったときからなんとなく懐かしさを感じたのはそのせいかなぁ」
「多分ね、でないと意味ないしね」
「意味がない?」
「そうよ、あなたが必要とするときに見える店だもの、あなたのためにならなくてどうするの」
Aは考えを整理しようと、黙って煮物を口に運んだ。
その瞬間、昔の味の記憶が蘇った。
まさに、お袋の味だった。
「思い出したようね」
「あなたの悩みに応えることはできないけど、ここで心が安らげばそれでいいのよ」
Aは黙って呑んで、食べた。
女は、やはりAの母親がよく作ったカレイの煮付けを出した。
Aは黙って食べた。
心の中に安らぎが広がり、自分の将来や仕事に持っていたわだかまりが消えていた。
目の前にお茶が出てきた。
玄米茶だった。
これも、母親がよく出してくれたものだった。
二人の間には沈黙が流れていたが、特に会話が必要な雰囲気ではなかった。
Aはお勘定を済ませて帰ろうとした。
「この店は、あなたにとってお母さんのようなものよ、お母さんが息子からお金取れる?」
「さあ、帰ってゆっくり休みなさい」
Aは女をしばらく見ていた。
「じゃ、お言葉に甘えて」
Aは、なんとなく全てを納得して表に出た。
翌朝、Aは昨夜の道を通って会社に行くことにした。
しかし、その店はなかった。
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横浜の本牧ふ頭には多くの倉庫があり、無数のコンテナが置かれている。
平日はひっきりなしに走るトレーラーで賑わっているが、休日ともなると釣り人くらいしか見当たらないほど静かだ。
この辺りには、埠頭で働く人達のためにいくつもの食堂があるが、漁港もあるためか、魚介類の献立が多い。
しかも、こじんまりとした家庭的な食堂が多いのだ。
この埠頭の倉庫で働く作業員のAは、そんな食堂を食べ歩くのを楽しみにしている中年の独身男だ。
魚料理が好きなAには好都合な立地だった。
長い間、定期的に店を回っているので、本牧ふ頭の食堂は全て制覇していた。
しかし、場所が場所だけに新規の店が出ることもなく、Aにしてみればややマンネリ化した食堂巡りになってきていた。
とは言え、独身でこれといった趣味もない身では、本牧ふ頭という限定エリアの食堂の味を楽しむという行動は止められなかった。
唯一救いがあるとすれば、魚介類の中身が季節によって変わるので、それなりの変化は楽しめることだった。
ある平日の晩、予定外の残業で、しかも思ったより長引いたため食堂に行きそこねたAは、コンビニで弁当でも買って帰ろうと会社を出た。
Aは家が近いので自転車で通っていた。
遅くなったので、いつものルートとは別の道を走っていたら、見たことのない看板が目に入ってきた。
最近この道を通らないから、新しい飲み屋でもできたのかと思って看板を見た。
すると、その看板は決して新しいものではなかった。
薄汚れて、ところどころ塗料もはげていた。
文字はかすれていて、よく読めなかった。
初めて見たので、わざとこんな作りにしているのかと思った。
最近の飲み屋には昭和初期の雰囲気を演出するために、わざと汚した外装、内装にする店もあるからだった。
Aは、コンビニで弁当買うよりこの店を試したほうが面白いと思って自転車を降りた。
扉を開けた。
客はいなかった。
店は思ったより明るかった。
4人掛けのテーブル席が2卓に、カウンターがあるだけの小さな店だ。
カウンターの中には中年の女が一人だけだった。
「いらっしゃい」
店に入った瞬間、明るく声をかけてきた。
「誰もいないからよかったカウンターに座って」
女は、人懐っこく話した。
どこかに懐かしさを感じた。
Aは、もとよりカウンターが好きなので一番端に座った。
「何か飲みます?」
「それともご飯?」
「じゃ、熱燗を1本、2合で」
「お酒が先ね、はい、ちょっと待っててね」
と言いながら、お通しを出してきた。
刺身の残り(と思われるもの)を酢味噌で和えたものだった。
Aの好物だった。
一口つまんだ。
美味かった。
味は、A好みだった。
酒を待つ間、Aは女に店のことを聞こうと思った。
「この店はいつからやってます?」
「もう4―5年になるかしらね」
「自分、この辺りで働いてるんだけど、気が付かなかった」
「この店はそういう店なのよ」
「そういう店って?」
「はい、お酒、ちょうどいい燗よ」
そう言うと女はAに酒を注いだ。
Aはゆっくりと呑んだ。
「そういう店ってどういうことなんです?」
「あなたにとって必要な時だけ、あなたには見えるのよ、この店が」
「はあぁ」
「あなた今夜残業で疲れてるでしょ、しかも、予定外の残業だったから、不満がいっぱいなのよね」
「どうしてそんなことが…」
確かに、予定外の残業だったが、そんなことはよくあることなので、気にはしていないが、問題は予想よりも時間がかかったことだった。そのことに腹が立っていたのだ。
「これまでのあなたなら、そんな時でも平気で過ごせるんだけど、最近のあなたにはちょっとした心境の変化があって…」
女を言葉を止めて、煮物の盛り合わせを出した。
「あなたのお母さんの味に近いわよ」
「お袋?」
Aの母親は10年ほど前に他界していたが、母子家庭だったAは母親が作る料理の味が忘れられなくて、いつも懐かしんでいた。
それが独身でいる理由のひとつでもあった。
「年のせいか、そろそろ結婚するか、それとも独身のまま過ごすか、ちょっと迷いがあるのね」
図星だった。
「そんな時に、真剣に相談できる相手がいなかから、余計に迷いというか悩みが深くなってしまって、最近ちょっと人恋しいんでしょ」
これも図星だった。
「なんでそんなことが分かるんだ?」
「そんなことは気にしなくていいのよ、あなたに必要だから、ここにいるの」
「でも、あんた誰なの?」
「う~ん、何ていえばいいのかな、今のあなたに必要な人として、私がここにいる、ただそれだけのことね」
答えにはなっていないが、このことはいくら話しても噛みあわないと思って、Aは話題を少し変えた。
「でも、店に入ったときからなんとなく懐かしさを感じたのはそのせいかなぁ」
「多分ね、でないと意味ないしね」
「意味がない?」
「そうよ、あなたが必要とするときに見える店だもの、あなたのためにならなくてどうするの」
Aは考えを整理しようと、黙って煮物を口に運んだ。
その瞬間、昔の味の記憶が蘇った。
まさに、お袋の味だった。
「思い出したようね」
「あなたの悩みに応えることはできないけど、ここで心が安らげばそれでいいのよ」
Aは黙って呑んで、食べた。
女は、やはりAの母親がよく作ったカレイの煮付けを出した。
Aは黙って食べた。
心の中に安らぎが広がり、自分の将来や仕事に持っていたわだかまりが消えていた。
目の前にお茶が出てきた。
玄米茶だった。
これも、母親がよく出してくれたものだった。
二人の間には沈黙が流れていたが、特に会話が必要な雰囲気ではなかった。
Aはお勘定を済ませて帰ろうとした。
「この店は、あなたにとってお母さんのようなものよ、お母さんが息子からお金取れる?」
「さあ、帰ってゆっくり休みなさい」
Aは女をしばらく見ていた。
「じゃ、お言葉に甘えて」
Aは、なんとなく全てを納得して表に出た。
翌朝、Aは昨夜の道を通って会社に行くことにした。
しかし、その店はなかった。
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発行元:飄現舎 代表 木村剛
【運営サイト:PC】
■集客動画制作のディマージュ■
http://www.dimages.org
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2010年3月13日土曜日
2杯目の夢
Aは糖尿病を患っている。
医者から厳しくカロリー制限するよう指示されている身だ。
そのため好きなアルコールも、糖尿病宣告以来控えてきた。
といっても、それまで毎日ウワバミのように呑んでいた酒量を、バーボンをシングル1杯に制限し相変わらず呑み続けている。
当然他の食事にも気をつけているので、最近の血液検査では指標となるヘモグロビンA1c(HbA1c)の値も下がり、安定してきている。
処方されていたアクトスも半分になり、徐々に改善に向かっているのだった。
そんなこともあってか、今日は少し気が緩み
-- あと1杯くらいはいいか
と、2杯目を注いでいた。
ここ半年ほど1杯でガマンしてきたためか、身体が1杯に慣れてきていたせいか、2杯目は美味しくもあり、酔いを加速させる効果も持っていた。
Aは目を閉じて2杯目の味を堪能していた。
瞑想するように気持ちを静めながら味わっていたら、いつの間にか意識が遠のいていた。
どのくらい経っただろうか。
気が付いたら近所の公園にいた。
薄汚れたベンチに腰をかけていた。
そこにヨレヨレのスーツを着たホームレスとおぼしき男が近づいてきた。
「お兄さん、そこ俺の場所なんだがな」
「えっ、そうなんですか、すいません」
「まあ、いいや、どこから来たんだ」
「えっ、いや気が付いたらここに、ちょっと酔っ払ったみたいで…」
「なに訳の分かんねぇこと言ってんだ」
Aは男がややびっこを引いているのが気になった。
「この脚かい、こりゃ義足だよ」
「義足?」
「ああ、糖尿病だったんだ、というよりきっと今でも糖尿病だろうけどな」
「糖尿ですか?」
「ああ、こんな生活してるのも糖尿病がもとで壊死した脚を切っちまったのが原因さ」
「壊死?」
「ああ、糖尿病性壊疽ってやつさ、合併症だよ」
「合併症?」
「酒が好きでな、呑まない日はなかったよ」
男は、自分が酒の呑みすぎや食べすぎで糖尿病を発症し、医者の指示で食事療法していたが、その制限に我慢できず、結局リバウンドなのかそれまで以上に暴飲暴食を続けた結果、脚をきることになった経緯を、Aに話した。
脚を切ってからの生活は荒れ、結局家族からも見放され、この公園に流れ着いた、そんな身の上だった。
普段話し相手がいないのか、それは饒舌だった。
「糖尿病って自覚症状がないだろう、だから食事制限なんて言われてもなぁ、結局気持ちが弱かったってことさ」
「いまはどうなんです?」
「こんな生活だから、もうどうでもいんだよ」
「…」
「ただ最後どんな死に方をするのか、それがちょっと気になるけどな」
「…」
「お兄さん、一杯どう?」
「えっ、酒ですか?」
「他にあるかよ、これもなんかの縁だ、一杯呑みなよ」
そういうと男はスーツの内ポケットからウィスキーのポケット瓶を取り出した。
ウィスキーは安い銘柄だった。
慣れた手つきで、瓶に付属の小さなプラスチックのコップにウィスキーを注ぐと、Aに渡した。
Aは戸惑ったが、その場の流れでウィスキーを口に含んだ。
その瞬間、安い酒にありがちの強いアルコールが鼻をついた。
Aは我に返った。
「なんだ夢かぁ」
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そのため好きなアルコールも、糖尿病宣告以来控えてきた。
といっても、それまで毎日ウワバミのように呑んでいた酒量を、バーボンをシングル1杯に制限し相変わらず呑み続けている。
当然他の食事にも気をつけているので、最近の血液検査では指標となるヘモグロビンA1c(HbA1c)の値も下がり、安定してきている。
処方されていたアクトスも半分になり、徐々に改善に向かっているのだった。
そんなこともあってか、今日は少し気が緩み
-- あと1杯くらいはいいか
と、2杯目を注いでいた。
ここ半年ほど1杯でガマンしてきたためか、身体が1杯に慣れてきていたせいか、2杯目は美味しくもあり、酔いを加速させる効果も持っていた。
Aは目を閉じて2杯目の味を堪能していた。
瞑想するように気持ちを静めながら味わっていたら、いつの間にか意識が遠のいていた。
どのくらい経っただろうか。
気が付いたら近所の公園にいた。
薄汚れたベンチに腰をかけていた。
そこにヨレヨレのスーツを着たホームレスとおぼしき男が近づいてきた。
「お兄さん、そこ俺の場所なんだがな」
「えっ、そうなんですか、すいません」
「まあ、いいや、どこから来たんだ」
「えっ、いや気が付いたらここに、ちょっと酔っ払ったみたいで…」
「なに訳の分かんねぇこと言ってんだ」
Aは男がややびっこを引いているのが気になった。
「この脚かい、こりゃ義足だよ」
「義足?」
「ああ、糖尿病だったんだ、というよりきっと今でも糖尿病だろうけどな」
「糖尿ですか?」
「ああ、こんな生活してるのも糖尿病がもとで壊死した脚を切っちまったのが原因さ」
「壊死?」
「ああ、糖尿病性壊疽ってやつさ、合併症だよ」
「合併症?」
「酒が好きでな、呑まない日はなかったよ」
男は、自分が酒の呑みすぎや食べすぎで糖尿病を発症し、医者の指示で食事療法していたが、その制限に我慢できず、結局リバウンドなのかそれまで以上に暴飲暴食を続けた結果、脚をきることになった経緯を、Aに話した。
脚を切ってからの生活は荒れ、結局家族からも見放され、この公園に流れ着いた、そんな身の上だった。
普段話し相手がいないのか、それは饒舌だった。
「糖尿病って自覚症状がないだろう、だから食事制限なんて言われてもなぁ、結局気持ちが弱かったってことさ」
「いまはどうなんです?」
「こんな生活だから、もうどうでもいんだよ」
「…」
「ただ最後どんな死に方をするのか、それがちょっと気になるけどな」
「…」
「お兄さん、一杯どう?」
「えっ、酒ですか?」
「他にあるかよ、これもなんかの縁だ、一杯呑みなよ」
そういうと男はスーツの内ポケットからウィスキーのポケット瓶を取り出した。
ウィスキーは安い銘柄だった。
慣れた手つきで、瓶に付属の小さなプラスチックのコップにウィスキーを注ぐと、Aに渡した。
Aは戸惑ったが、その場の流れでウィスキーを口に含んだ。
その瞬間、安い酒にありがちの強いアルコールが鼻をついた。
Aは我に返った。
「なんだ夢かぁ」
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