2010年3月21日日曜日

心の定食屋

心の定食屋

横浜の本牧ふ頭には多くの倉庫があり、無数のコンテナが置かれている。

平日はひっきりなしに走るトレーラーで賑わっているが、休日ともなると釣り人くらいしか見当たらないほど静かだ。

この辺りには、埠頭で働く人達のためにいくつもの食堂があるが、漁港もあるためか、魚介類の献立が多い。

しかも、こじんまりとした家庭的な食堂が多いのだ。

この埠頭の倉庫で働く作業員のAは、そんな食堂を食べ歩くのを楽しみにしている中年の独身男だ。

魚料理が好きなAには好都合な立地だった。

長い間、定期的に店を回っているので、本牧ふ頭の食堂は全て制覇していた。

しかし、場所が場所だけに新規の店が出ることもなく、Aにしてみればややマンネリ化した食堂巡りになってきていた。

とは言え、独身でこれといった趣味もない身では、本牧ふ頭という限定エリアの食堂の味を楽しむという行動は止められなかった。

唯一救いがあるとすれば、魚介類の中身が季節によって変わるので、それなりの変化は楽しめることだった。


ある平日の晩、予定外の残業で、しかも思ったより長引いたため食堂に行きそこねたAは、コンビニで弁当でも買って帰ろうと会社を出た。

Aは家が近いので自転車で通っていた。

遅くなったので、いつものルートとは別の道を走っていたら、見たことのない看板が目に入ってきた。

最近この道を通らないから、新しい飲み屋でもできたのかと思って看板を見た。

すると、その看板は決して新しいものではなかった。

薄汚れて、ところどころ塗料もはげていた。

文字はかすれていて、よく読めなかった。

初めて見たので、わざとこんな作りにしているのかと思った。

最近の飲み屋には昭和初期の雰囲気を演出するために、わざと汚した外装、内装にする店もあるからだった。

Aは、コンビニで弁当買うよりこの店を試したほうが面白いと思って自転車を降りた。

扉を開けた。

客はいなかった。

店は思ったより明るかった。

4人掛けのテーブル席が2卓に、カウンターがあるだけの小さな店だ。

カウンターの中には中年の女が一人だけだった。

「いらっしゃい」

店に入った瞬間、明るく声をかけてきた。

「誰もいないからよかったカウンターに座って」

女は、人懐っこく話した。

どこかに懐かしさを感じた。


Aは、もとよりカウンターが好きなので一番端に座った。

「何か飲みます?」

「それともご飯?」

「じゃ、熱燗を1本、2合で」

「お酒が先ね、はい、ちょっと待っててね」

と言いながら、お通しを出してきた。

刺身の残り(と思われるもの)を酢味噌で和えたものだった。

Aの好物だった。

一口つまんだ。

美味かった。

味は、A好みだった。

酒を待つ間、Aは女に店のことを聞こうと思った。

「この店はいつからやってます?」

「もう4―5年になるかしらね」

「自分、この辺りで働いてるんだけど、気が付かなかった」

「この店はそういう店なのよ」

「そういう店って?」

「はい、お酒、ちょうどいい燗よ」

そう言うと女はAに酒を注いだ。

Aはゆっくりと呑んだ。

「そういう店ってどういうことなんです?」

「あなたにとって必要な時だけ、あなたには見えるのよ、この店が」

「はあぁ」

「あなた今夜残業で疲れてるでしょ、しかも、予定外の残業だったから、不満がいっぱいなのよね」

「どうしてそんなことが…」

確かに、予定外の残業だったが、そんなことはよくあることなので、気にはしていないが、問題は予想よりも時間がかかったことだった。そのことに腹が立っていたのだ。

「これまでのあなたなら、そんな時でも平気で過ごせるんだけど、最近のあなたにはちょっとした心境の変化があって…」

女を言葉を止めて、煮物の盛り合わせを出した。

「あなたのお母さんの味に近いわよ」

「お袋?」

Aの母親は10年ほど前に他界していたが、母子家庭だったAは母親が作る料理の味が忘れられなくて、いつも懐かしんでいた。

それが独身でいる理由のひとつでもあった。

「年のせいか、そろそろ結婚するか、それとも独身のまま過ごすか、ちょっと迷いがあるのね」

図星だった。

「そんな時に、真剣に相談できる相手がいなかから、余計に迷いというか悩みが深くなってしまって、最近ちょっと人恋しいんでしょ」

これも図星だった。

「なんでそんなことが分かるんだ?」

「そんなことは気にしなくていいのよ、あなたに必要だから、ここにいるの」

「でも、あんた誰なの?」

「う~ん、何ていえばいいのかな、今のあなたに必要な人として、私がここにいる、ただそれだけのことね」

答えにはなっていないが、このことはいくら話しても噛みあわないと思って、Aは話題を少し変えた。

「でも、店に入ったときからなんとなく懐かしさを感じたのはそのせいかなぁ」

「多分ね、でないと意味ないしね」

「意味がない?」

「そうよ、あなたが必要とするときに見える店だもの、あなたのためにならなくてどうするの」

Aは考えを整理しようと、黙って煮物を口に運んだ。

その瞬間、昔の味の記憶が蘇った。

まさに、お袋の味だった。

「思い出したようね」

「あなたの悩みに応えることはできないけど、ここで心が安らげばそれでいいのよ」

Aは黙って呑んで、食べた。

女は、やはりAの母親がよく作ったカレイの煮付けを出した。

Aは黙って食べた。

心の中に安らぎが広がり、自分の将来や仕事に持っていたわだかまりが消えていた。


目の前にお茶が出てきた。

玄米茶だった。

これも、母親がよく出してくれたものだった。

二人の間には沈黙が流れていたが、特に会話が必要な雰囲気ではなかった。



Aはお勘定を済ませて帰ろうとした。

「この店は、あなたにとってお母さんのようなものよ、お母さんが息子からお金取れる?」

「さあ、帰ってゆっくり休みなさい」

Aは女をしばらく見ていた。

「じゃ、お言葉に甘えて」

Aは、なんとなく全てを納得して表に出た。



翌朝、Aは昨夜の道を通って会社に行くことにした。

しかし、その店はなかった。


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