ジェネリック医薬品の秘密
医療費の増加に頭を悩ませている政府は、医療機関で処方される薬をできるだえジェネリック医薬品に替えるべく、医療報酬制度の改定を進めている。
ジェネリック医薬品を使う方が報酬が高くなる仕組み作りをしているのだ。
つまり飴とムチの関係だ。
ジェネリック医薬品メーカーは当然この流れを喜んで見守っているが、まったく関係のない企業が、この流れを注視していた。
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Aは普段より早く起きた。
社会人になってから12年間勤めてきた会社を人間関係の問題で辞め、外資系のベンチャー企業に転職したばかりだったから、心機一転のつもりで早く会社に行こうと早起きしたのだった。
新しい会社、B社は、バイオ関連の研究や医療関連の新しいシーズを調査している会社だ。
親会社は欧州に拠点を持つ総合エンジニアリング会社を核にしたコングロマリットで、これまでも世界各国(とりわけ中東やアフリカなど)で大規模な案件を手がけてきていた。
さらに、親会社は各国政府とのよからぬ噂が絶えないことでも有名だったが、自分がいるベンチャーはそれに比べれば米粒ほどの規模だから、気にはならなかった。
新会社は日本で設立されてまだ間もないため、スタッフは少なかった。
定刻より1時間前に着いたが、1番手は社長のM氏だった。
さすがベンチャーの経営者は違うな、とAは思った。
「おはようございます」
「おはようございます、早いですね」
「はい、この会社ではまだ新人ですから」
「最初からダッシュすると後で息切れするから、自分にとって適度なスピードをキープするようにね」
「はい、ありがとうございます」
以前勤めていた会社とは違って、精神論よりも合理性が勝っていると、Aは感じた。
この会社でのAの仕事は、日本の医薬品業界の相関関係を調べることだった。
日本では、医療機関に医薬品を販売する場合、医薬品メーカーが直接販売するより、いくつかの問屋を通して販売するケースが主流だ。
これは医薬品だけでなく、医療機器も同様だった。
旧態依然とした仕組みのようだが、医療機関にすれば、忙しい時にいくつもあるメーカーの人間に頻繁に来られても困るし、たくさんある医薬品の情報を、無駄なく合理的にできるだけ多く知る必要もあるので、問屋経由の方が都合がよかった。
それだけ、問屋(のスタッフ)には専門性が求められているが、メーカーより優位にたったビジネスが展開できるので業界での地位は高かった。
Aはそんな問屋への調査を始めていた。
B社は今後日本で利用が促進されるジェネリック医薬品を、インドの会社と共同で製造販売していくプロジェクトを進めていたのだ。
その販路を開拓する目的での調査だった。
「問屋とメーカーの関係についてのレポートはいつ上がりますか?」
M氏は、Aに調査状況をたずねた。
「来週末には提出いたします」
「分かりました、よろしくお願いしますね」
Aは問屋のひとつであるP社の人間から、業界や薬のことを教えてもらっていた。
「新薬が初めて市場に出た後には市販後調査があって、安全性や副作用などの調査が行われます」
「ジェネリックでもですか?」
「そうです、ジェネリックでもその調査の結果次第では市場から撤退するものもありますよ」
「そうなんですか」
Aはこの話になんとなく疑問を感じていた。
それが何かはすぐに分からなかったが、ある日、自分が通うクリニックのドクターと話していて、疑問の中身が分かった。
「先生はジェネリックをあまり処方されないようですが、何故です?」
「ジェネリックと言ってもね、100%情報が開示されていて、100%のコピー薬という訳ではないからさ」
「と言うと?」
「薬にも、料理と一緒で材料を結びつけるツナギが必要なんだが、その情報は開示されていない、と言うことは、ジェネリックではその部分が独自の技術になってくる、ということは100%のコピーではないから、安全性や副作用の心配がある、ということさ」
「そうなんですか、じゃ全くの新薬ですね」
「そういうこと、だから国がジェネリックを促進してるけど、俺は安全性が確認できてから使うよ」
Aの疑問は氷解した。
Aはレポートをまとめていた。
何度かプリントアウトして、見直しては書き直し、不要な書類をシュレッダーで裁断するという作業を繰り返していた。
社内では、秘密保持のために不要な書類はシュレッダーで裁断することになっていた。
その日は、M氏も大量の書類を裁断していた。
分厚ファイルだった。
AはM氏の作業が終わるの待って自分の書類をシュレッダーにかけた。
その時、Aは機械の下に落ちている1枚の書類に気が付いた。
多分、M氏が処理し損なったものだと思った。
M氏はすでに外出して留守だったので、後で確認してから処理しようと拾い上げた。
書類はレターサイズのものでいかにも外国から来たというような体裁だった。
文面はもちろん英語だったが、書類のタイトルが気になった。
「ジェネリックによるマインドコントロールプロジェクト」というものだった。
書類は一部なので全体像は不明だが、ジェネリック医薬品を使ってなんらかのマインドコントロールを謀るというもののようで、医薬品を構成する成分について書かれていた。
しばらく、その書類を見ながら思案していたが、ふと、クリニックのドクターが言ったことを思い出した。
「ツナギは独自の技術で…」
Aは納得した。
ツナギに副作用がなくて常習性があるような薬物を使えば、一種の麻薬もできるし、精神をある方向に誘導することだった不可能ではないだろう、Aはそう理解した。
そう言えば、親会社は…。
Aの胸に暗雲が垂れこめ始めた。
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2010年3月28日日曜日
2010年3月21日日曜日
心の定食屋
心の定食屋
横浜の本牧ふ頭には多くの倉庫があり、無数のコンテナが置かれている。
平日はひっきりなしに走るトレーラーで賑わっているが、休日ともなると釣り人くらいしか見当たらないほど静かだ。
この辺りには、埠頭で働く人達のためにいくつもの食堂があるが、漁港もあるためか、魚介類の献立が多い。
しかも、こじんまりとした家庭的な食堂が多いのだ。
この埠頭の倉庫で働く作業員のAは、そんな食堂を食べ歩くのを楽しみにしている中年の独身男だ。
魚料理が好きなAには好都合な立地だった。
長い間、定期的に店を回っているので、本牧ふ頭の食堂は全て制覇していた。
しかし、場所が場所だけに新規の店が出ることもなく、Aにしてみればややマンネリ化した食堂巡りになってきていた。
とは言え、独身でこれといった趣味もない身では、本牧ふ頭という限定エリアの食堂の味を楽しむという行動は止められなかった。
唯一救いがあるとすれば、魚介類の中身が季節によって変わるので、それなりの変化は楽しめることだった。
ある平日の晩、予定外の残業で、しかも思ったより長引いたため食堂に行きそこねたAは、コンビニで弁当でも買って帰ろうと会社を出た。
Aは家が近いので自転車で通っていた。
遅くなったので、いつものルートとは別の道を走っていたら、見たことのない看板が目に入ってきた。
最近この道を通らないから、新しい飲み屋でもできたのかと思って看板を見た。
すると、その看板は決して新しいものではなかった。
薄汚れて、ところどころ塗料もはげていた。
文字はかすれていて、よく読めなかった。
初めて見たので、わざとこんな作りにしているのかと思った。
最近の飲み屋には昭和初期の雰囲気を演出するために、わざと汚した外装、内装にする店もあるからだった。
Aは、コンビニで弁当買うよりこの店を試したほうが面白いと思って自転車を降りた。
扉を開けた。
客はいなかった。
店は思ったより明るかった。
4人掛けのテーブル席が2卓に、カウンターがあるだけの小さな店だ。
カウンターの中には中年の女が一人だけだった。
「いらっしゃい」
店に入った瞬間、明るく声をかけてきた。
「誰もいないからよかったカウンターに座って」
女は、人懐っこく話した。
どこかに懐かしさを感じた。
Aは、もとよりカウンターが好きなので一番端に座った。
「何か飲みます?」
「それともご飯?」
「じゃ、熱燗を1本、2合で」
「お酒が先ね、はい、ちょっと待っててね」
と言いながら、お通しを出してきた。
刺身の残り(と思われるもの)を酢味噌で和えたものだった。
Aの好物だった。
一口つまんだ。
美味かった。
味は、A好みだった。
酒を待つ間、Aは女に店のことを聞こうと思った。
「この店はいつからやってます?」
「もう4―5年になるかしらね」
「自分、この辺りで働いてるんだけど、気が付かなかった」
「この店はそういう店なのよ」
「そういう店って?」
「はい、お酒、ちょうどいい燗よ」
そう言うと女はAに酒を注いだ。
Aはゆっくりと呑んだ。
「そういう店ってどういうことなんです?」
「あなたにとって必要な時だけ、あなたには見えるのよ、この店が」
「はあぁ」
「あなた今夜残業で疲れてるでしょ、しかも、予定外の残業だったから、不満がいっぱいなのよね」
「どうしてそんなことが…」
確かに、予定外の残業だったが、そんなことはよくあることなので、気にはしていないが、問題は予想よりも時間がかかったことだった。そのことに腹が立っていたのだ。
「これまでのあなたなら、そんな時でも平気で過ごせるんだけど、最近のあなたにはちょっとした心境の変化があって…」
女を言葉を止めて、煮物の盛り合わせを出した。
「あなたのお母さんの味に近いわよ」
「お袋?」
Aの母親は10年ほど前に他界していたが、母子家庭だったAは母親が作る料理の味が忘れられなくて、いつも懐かしんでいた。
それが独身でいる理由のひとつでもあった。
「年のせいか、そろそろ結婚するか、それとも独身のまま過ごすか、ちょっと迷いがあるのね」
図星だった。
「そんな時に、真剣に相談できる相手がいなかから、余計に迷いというか悩みが深くなってしまって、最近ちょっと人恋しいんでしょ」
これも図星だった。
「なんでそんなことが分かるんだ?」
「そんなことは気にしなくていいのよ、あなたに必要だから、ここにいるの」
「でも、あんた誰なの?」
「う~ん、何ていえばいいのかな、今のあなたに必要な人として、私がここにいる、ただそれだけのことね」
答えにはなっていないが、このことはいくら話しても噛みあわないと思って、Aは話題を少し変えた。
「でも、店に入ったときからなんとなく懐かしさを感じたのはそのせいかなぁ」
「多分ね、でないと意味ないしね」
「意味がない?」
「そうよ、あなたが必要とするときに見える店だもの、あなたのためにならなくてどうするの」
Aは考えを整理しようと、黙って煮物を口に運んだ。
その瞬間、昔の味の記憶が蘇った。
まさに、お袋の味だった。
「思い出したようね」
「あなたの悩みに応えることはできないけど、ここで心が安らげばそれでいいのよ」
Aは黙って呑んで、食べた。
女は、やはりAの母親がよく作ったカレイの煮付けを出した。
Aは黙って食べた。
心の中に安らぎが広がり、自分の将来や仕事に持っていたわだかまりが消えていた。
目の前にお茶が出てきた。
玄米茶だった。
これも、母親がよく出してくれたものだった。
二人の間には沈黙が流れていたが、特に会話が必要な雰囲気ではなかった。
Aはお勘定を済ませて帰ろうとした。
「この店は、あなたにとってお母さんのようなものよ、お母さんが息子からお金取れる?」
「さあ、帰ってゆっくり休みなさい」
Aは女をしばらく見ていた。
「じゃ、お言葉に甘えて」
Aは、なんとなく全てを納得して表に出た。
翌朝、Aは昨夜の道を通って会社に行くことにした。
しかし、その店はなかった。
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発行元:飄現舎 代表 木村剛
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平日はひっきりなしに走るトレーラーで賑わっているが、休日ともなると釣り人くらいしか見当たらないほど静かだ。
この辺りには、埠頭で働く人達のためにいくつもの食堂があるが、漁港もあるためか、魚介類の献立が多い。
しかも、こじんまりとした家庭的な食堂が多いのだ。
この埠頭の倉庫で働く作業員のAは、そんな食堂を食べ歩くのを楽しみにしている中年の独身男だ。
魚料理が好きなAには好都合な立地だった。
長い間、定期的に店を回っているので、本牧ふ頭の食堂は全て制覇していた。
しかし、場所が場所だけに新規の店が出ることもなく、Aにしてみればややマンネリ化した食堂巡りになってきていた。
とは言え、独身でこれといった趣味もない身では、本牧ふ頭という限定エリアの食堂の味を楽しむという行動は止められなかった。
唯一救いがあるとすれば、魚介類の中身が季節によって変わるので、それなりの変化は楽しめることだった。
ある平日の晩、予定外の残業で、しかも思ったより長引いたため食堂に行きそこねたAは、コンビニで弁当でも買って帰ろうと会社を出た。
Aは家が近いので自転車で通っていた。
遅くなったので、いつものルートとは別の道を走っていたら、見たことのない看板が目に入ってきた。
最近この道を通らないから、新しい飲み屋でもできたのかと思って看板を見た。
すると、その看板は決して新しいものではなかった。
薄汚れて、ところどころ塗料もはげていた。
文字はかすれていて、よく読めなかった。
初めて見たので、わざとこんな作りにしているのかと思った。
最近の飲み屋には昭和初期の雰囲気を演出するために、わざと汚した外装、内装にする店もあるからだった。
Aは、コンビニで弁当買うよりこの店を試したほうが面白いと思って自転車を降りた。
扉を開けた。
客はいなかった。
店は思ったより明るかった。
4人掛けのテーブル席が2卓に、カウンターがあるだけの小さな店だ。
カウンターの中には中年の女が一人だけだった。
「いらっしゃい」
店に入った瞬間、明るく声をかけてきた。
「誰もいないからよかったカウンターに座って」
女は、人懐っこく話した。
どこかに懐かしさを感じた。
Aは、もとよりカウンターが好きなので一番端に座った。
「何か飲みます?」
「それともご飯?」
「じゃ、熱燗を1本、2合で」
「お酒が先ね、はい、ちょっと待っててね」
と言いながら、お通しを出してきた。
刺身の残り(と思われるもの)を酢味噌で和えたものだった。
Aの好物だった。
一口つまんだ。
美味かった。
味は、A好みだった。
酒を待つ間、Aは女に店のことを聞こうと思った。
「この店はいつからやってます?」
「もう4―5年になるかしらね」
「自分、この辺りで働いてるんだけど、気が付かなかった」
「この店はそういう店なのよ」
「そういう店って?」
「はい、お酒、ちょうどいい燗よ」
そう言うと女はAに酒を注いだ。
Aはゆっくりと呑んだ。
「そういう店ってどういうことなんです?」
「あなたにとって必要な時だけ、あなたには見えるのよ、この店が」
「はあぁ」
「あなた今夜残業で疲れてるでしょ、しかも、予定外の残業だったから、不満がいっぱいなのよね」
「どうしてそんなことが…」
確かに、予定外の残業だったが、そんなことはよくあることなので、気にはしていないが、問題は予想よりも時間がかかったことだった。そのことに腹が立っていたのだ。
「これまでのあなたなら、そんな時でも平気で過ごせるんだけど、最近のあなたにはちょっとした心境の変化があって…」
女を言葉を止めて、煮物の盛り合わせを出した。
「あなたのお母さんの味に近いわよ」
「お袋?」
Aの母親は10年ほど前に他界していたが、母子家庭だったAは母親が作る料理の味が忘れられなくて、いつも懐かしんでいた。
それが独身でいる理由のひとつでもあった。
「年のせいか、そろそろ結婚するか、それとも独身のまま過ごすか、ちょっと迷いがあるのね」
図星だった。
「そんな時に、真剣に相談できる相手がいなかから、余計に迷いというか悩みが深くなってしまって、最近ちょっと人恋しいんでしょ」
これも図星だった。
「なんでそんなことが分かるんだ?」
「そんなことは気にしなくていいのよ、あなたに必要だから、ここにいるの」
「でも、あんた誰なの?」
「う~ん、何ていえばいいのかな、今のあなたに必要な人として、私がここにいる、ただそれだけのことね」
答えにはなっていないが、このことはいくら話しても噛みあわないと思って、Aは話題を少し変えた。
「でも、店に入ったときからなんとなく懐かしさを感じたのはそのせいかなぁ」
「多分ね、でないと意味ないしね」
「意味がない?」
「そうよ、あなたが必要とするときに見える店だもの、あなたのためにならなくてどうするの」
Aは考えを整理しようと、黙って煮物を口に運んだ。
その瞬間、昔の味の記憶が蘇った。
まさに、お袋の味だった。
「思い出したようね」
「あなたの悩みに応えることはできないけど、ここで心が安らげばそれでいいのよ」
Aは黙って呑んで、食べた。
女は、やはりAの母親がよく作ったカレイの煮付けを出した。
Aは黙って食べた。
心の中に安らぎが広がり、自分の将来や仕事に持っていたわだかまりが消えていた。
目の前にお茶が出てきた。
玄米茶だった。
これも、母親がよく出してくれたものだった。
二人の間には沈黙が流れていたが、特に会話が必要な雰囲気ではなかった。
Aはお勘定を済ませて帰ろうとした。
「この店は、あなたにとってお母さんのようなものよ、お母さんが息子からお金取れる?」
「さあ、帰ってゆっくり休みなさい」
Aは女をしばらく見ていた。
「じゃ、お言葉に甘えて」
Aは、なんとなく全てを納得して表に出た。
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2010年3月13日土曜日
2杯目の夢
Aは糖尿病を患っている。
医者から厳しくカロリー制限するよう指示されている身だ。
そのため好きなアルコールも、糖尿病宣告以来控えてきた。
といっても、それまで毎日ウワバミのように呑んでいた酒量を、バーボンをシングル1杯に制限し相変わらず呑み続けている。
当然他の食事にも気をつけているので、最近の血液検査では指標となるヘモグロビンA1c(HbA1c)の値も下がり、安定してきている。
処方されていたアクトスも半分になり、徐々に改善に向かっているのだった。
そんなこともあってか、今日は少し気が緩み
-- あと1杯くらいはいいか
と、2杯目を注いでいた。
ここ半年ほど1杯でガマンしてきたためか、身体が1杯に慣れてきていたせいか、2杯目は美味しくもあり、酔いを加速させる効果も持っていた。
Aは目を閉じて2杯目の味を堪能していた。
瞑想するように気持ちを静めながら味わっていたら、いつの間にか意識が遠のいていた。
どのくらい経っただろうか。
気が付いたら近所の公園にいた。
薄汚れたベンチに腰をかけていた。
そこにヨレヨレのスーツを着たホームレスとおぼしき男が近づいてきた。
「お兄さん、そこ俺の場所なんだがな」
「えっ、そうなんですか、すいません」
「まあ、いいや、どこから来たんだ」
「えっ、いや気が付いたらここに、ちょっと酔っ払ったみたいで…」
「なに訳の分かんねぇこと言ってんだ」
Aは男がややびっこを引いているのが気になった。
「この脚かい、こりゃ義足だよ」
「義足?」
「ああ、糖尿病だったんだ、というよりきっと今でも糖尿病だろうけどな」
「糖尿ですか?」
「ああ、こんな生活してるのも糖尿病がもとで壊死した脚を切っちまったのが原因さ」
「壊死?」
「ああ、糖尿病性壊疽ってやつさ、合併症だよ」
「合併症?」
「酒が好きでな、呑まない日はなかったよ」
男は、自分が酒の呑みすぎや食べすぎで糖尿病を発症し、医者の指示で食事療法していたが、その制限に我慢できず、結局リバウンドなのかそれまで以上に暴飲暴食を続けた結果、脚をきることになった経緯を、Aに話した。
脚を切ってからの生活は荒れ、結局家族からも見放され、この公園に流れ着いた、そんな身の上だった。
普段話し相手がいないのか、それは饒舌だった。
「糖尿病って自覚症状がないだろう、だから食事制限なんて言われてもなぁ、結局気持ちが弱かったってことさ」
「いまはどうなんです?」
「こんな生活だから、もうどうでもいんだよ」
「…」
「ただ最後どんな死に方をするのか、それがちょっと気になるけどな」
「…」
「お兄さん、一杯どう?」
「えっ、酒ですか?」
「他にあるかよ、これもなんかの縁だ、一杯呑みなよ」
そういうと男はスーツの内ポケットからウィスキーのポケット瓶を取り出した。
ウィスキーは安い銘柄だった。
慣れた手つきで、瓶に付属の小さなプラスチックのコップにウィスキーを注ぐと、Aに渡した。
Aは戸惑ったが、その場の流れでウィスキーを口に含んだ。
その瞬間、安い酒にありがちの強いアルコールが鼻をついた。
Aは我に返った。
「なんだ夢かぁ」
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医者から厳しくカロリー制限するよう指示されている身だ。
そのため好きなアルコールも、糖尿病宣告以来控えてきた。
といっても、それまで毎日ウワバミのように呑んでいた酒量を、バーボンをシングル1杯に制限し相変わらず呑み続けている。
当然他の食事にも気をつけているので、最近の血液検査では指標となるヘモグロビンA1c(HbA1c)の値も下がり、安定してきている。
処方されていたアクトスも半分になり、徐々に改善に向かっているのだった。
そんなこともあってか、今日は少し気が緩み
-- あと1杯くらいはいいか
と、2杯目を注いでいた。
ここ半年ほど1杯でガマンしてきたためか、身体が1杯に慣れてきていたせいか、2杯目は美味しくもあり、酔いを加速させる効果も持っていた。
Aは目を閉じて2杯目の味を堪能していた。
瞑想するように気持ちを静めながら味わっていたら、いつの間にか意識が遠のいていた。
どのくらい経っただろうか。
気が付いたら近所の公園にいた。
薄汚れたベンチに腰をかけていた。
そこにヨレヨレのスーツを着たホームレスとおぼしき男が近づいてきた。
「お兄さん、そこ俺の場所なんだがな」
「えっ、そうなんですか、すいません」
「まあ、いいや、どこから来たんだ」
「えっ、いや気が付いたらここに、ちょっと酔っ払ったみたいで…」
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Aは男がややびっこを引いているのが気になった。
「この脚かい、こりゃ義足だよ」
「義足?」
「ああ、糖尿病だったんだ、というよりきっと今でも糖尿病だろうけどな」
「糖尿ですか?」
「ああ、こんな生活してるのも糖尿病がもとで壊死した脚を切っちまったのが原因さ」
「壊死?」
「ああ、糖尿病性壊疽ってやつさ、合併症だよ」
「合併症?」
「酒が好きでな、呑まない日はなかったよ」
男は、自分が酒の呑みすぎや食べすぎで糖尿病を発症し、医者の指示で食事療法していたが、その制限に我慢できず、結局リバウンドなのかそれまで以上に暴飲暴食を続けた結果、脚をきることになった経緯を、Aに話した。
脚を切ってからの生活は荒れ、結局家族からも見放され、この公園に流れ着いた、そんな身の上だった。
普段話し相手がいないのか、それは饒舌だった。
「糖尿病って自覚症状がないだろう、だから食事制限なんて言われてもなぁ、結局気持ちが弱かったってことさ」
「いまはどうなんです?」
「こんな生活だから、もうどうでもいんだよ」
「…」
「ただ最後どんな死に方をするのか、それがちょっと気になるけどな」
「…」
「お兄さん、一杯どう?」
「えっ、酒ですか?」
「他にあるかよ、これもなんかの縁だ、一杯呑みなよ」
そういうと男はスーツの内ポケットからウィスキーのポケット瓶を取り出した。
ウィスキーは安い銘柄だった。
慣れた手つきで、瓶に付属の小さなプラスチックのコップにウィスキーを注ぐと、Aに渡した。
Aは戸惑ったが、その場の流れでウィスキーを口に含んだ。
その瞬間、安い酒にありがちの強いアルコールが鼻をついた。
Aは我に返った。
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2010年3月7日日曜日
灰になった男
その宿は、湯河原温泉郷の入り口にあり、ちとせ川のせせらぎが聞こえる場所にあった。
温泉宿には珍しい陶芸教室を開いている宿で、指導員もいる。
大型の陶芸用焼窯を2基持っていて、地元だけでなく横浜方面からもお客がやってくるという宿だ。
Aは周囲には知られずに陶芸をやってみようと思い立ち、この宿をインターネットで調べて、宿泊コースの陶芸教室に参加していた。
友人などに知られると冷やかされたり、作品を酷評されたりと悪い事ばかり想像してしまい、自身が住む都内で陶芸教室を探す気になれなかったからだ。
湯河原温泉は熱海の隣で新幹線も停まらず、やや鄙びた印象もあるが、土地柄、人柄が穏やかで住み易そうな町だと思った。
多くの著名人が住む理由が分かるような気がする。
宿は公共の施設で、近年の経済状況を反映してか、設備などは古い。
しかし、温泉浴場が3つあり、陶芸と温泉を楽しむには問題なかった。
また料理が部屋出しというのも、周囲に気兼ねなく食事できるので、これも好都合だった。
1泊2日の日程だが、陶芸教室は2日目の朝からだった。
Aはその夜、食事が済んでから庭園を散歩した。
陶芸用の窯は敷地の端にあった。
Aは下見のつもりで窯の方へ足を向けた。
そこには小さな作業場と窯場があった。
ひとしきりその場で施設を見た後、常夜灯にぼんやりと照らし出された飛び石がある道を戻った。
部屋でひとしきりくろいだAは、そろそろ温泉にでも入ろうとか、混み具合を確認しに3つの浴場を見に行った。
3つの浴場のうち2つは隣合わせだったが、1つが離れにあった。
離れにある浴場の近くには中庭がある。
ほとんど明かりもなく、どんな庭なのかまったく想像できないくらい暗かった。
その暗がりの中からひそひそと話す人の声を、Aは耳にした。
Aは好奇心から、その話の内容を聞きたくなり、自分の気配を殺してその場に立った。
「野中は俺たちのやってることに気づいてるぜ」
「そんな感じだね、このままだと上層部の連中に報告されてしまうな」
「俺達がやってることなんか、業界じゃ常識なんだが、あいつ変なとこ生真面目だからな」
「ボクがなんとかするよ」
「何とかするって?」
「陶芸教室で焼窯使うだろう、アレはガス窯だからガス中毒かなんかの事故に見せかければうまくいくだろう」
野中とは陶芸教室の指導員のことだ。
話している二人のうち一人は、宿にチェックインした時応対してくれた、支配人の声だった。
相手の方は誰だか分からないが、この宿の人間であることは間違いなかった。
話の内容が穏やかでないので、関わりを持つのは危険だと思ったAは、その場をそっと離れて、別の浴場へ足を向けた。
翌朝食事を済ませたAは窯場に向かった。
早く陶芸をやりたいという気持ちに加えて、夕べの話も気になり、予定時間より早く着いた。
指導員の野中は陶芸教室の準備をしていた。
「おはようございます」
「教室に参加の方ですか?」
「はい」
「早いですね、まだ準備してますから、ちょっと待っててもらえますか?」
「分かりました、じゃ、その辺をうろついてます」
Aはそう言うと、作業場を出て庭を散策した。
作業場の隣が窯のあるプレハブだった。
Aは、窯がどんなものなのか気になって、プレハブを覗いてみた。
窯は2基あった。
とても大きなもので人間が入れそうなくらいのサイズだった。
Aは小屋の窓ガラスが少し暖かいのに気がついた。
窯の扉は開いていたが、夕べ作品でも焼いたのかも知れないと思った。
Aはその扉の下に5ミリほどの丸い玉が数個乱雑に落ちているのを見つけた。
汚れているが、やや緑色を帯びていた。
どこかで見た玉のような気がした。
陶芸教室が終わり、チェックアウトしたAは夕べのことが気になり、それとなく支配人を受付付近で探したが見当たらなかった。
そこへ、料理人と思われるでっぷりと太った男がやってきた。
受付で事務員と話す内容をそれとなく聞いていると、どうやら支配人を探しているようだった。
話の様子ではその料理人は料理長のようだ。
そしてその声は、夕べ支配人と話していた相手のものだった。
翌朝、新聞を手にしたAは、社会面に湯河原温泉で宿の支配人失踪の記事を見つけた。
あの支配人だった。
Aは思い出した。
チェックインの時、支配人が手首に数珠をしていたのを。
それは翡翠のようだった。
窯の前に乱雑に落ちていたのはその珠だったのだ。
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発行元:飄現舎 代表 木村剛
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温泉宿には珍しい陶芸教室を開いている宿で、指導員もいる。
大型の陶芸用焼窯を2基持っていて、地元だけでなく横浜方面からもお客がやってくるという宿だ。
Aは周囲には知られずに陶芸をやってみようと思い立ち、この宿をインターネットで調べて、宿泊コースの陶芸教室に参加していた。
友人などに知られると冷やかされたり、作品を酷評されたりと悪い事ばかり想像してしまい、自身が住む都内で陶芸教室を探す気になれなかったからだ。
湯河原温泉は熱海の隣で新幹線も停まらず、やや鄙びた印象もあるが、土地柄、人柄が穏やかで住み易そうな町だと思った。
多くの著名人が住む理由が分かるような気がする。
宿は公共の施設で、近年の経済状況を反映してか、設備などは古い。
しかし、温泉浴場が3つあり、陶芸と温泉を楽しむには問題なかった。
また料理が部屋出しというのも、周囲に気兼ねなく食事できるので、これも好都合だった。
1泊2日の日程だが、陶芸教室は2日目の朝からだった。
Aはその夜、食事が済んでから庭園を散歩した。
陶芸用の窯は敷地の端にあった。
Aは下見のつもりで窯の方へ足を向けた。
そこには小さな作業場と窯場があった。
ひとしきりその場で施設を見た後、常夜灯にぼんやりと照らし出された飛び石がある道を戻った。
部屋でひとしきりくろいだAは、そろそろ温泉にでも入ろうとか、混み具合を確認しに3つの浴場を見に行った。
3つの浴場のうち2つは隣合わせだったが、1つが離れにあった。
離れにある浴場の近くには中庭がある。
ほとんど明かりもなく、どんな庭なのかまったく想像できないくらい暗かった。
その暗がりの中からひそひそと話す人の声を、Aは耳にした。
Aは好奇心から、その話の内容を聞きたくなり、自分の気配を殺してその場に立った。
「野中は俺たちのやってることに気づいてるぜ」
「そんな感じだね、このままだと上層部の連中に報告されてしまうな」
「俺達がやってることなんか、業界じゃ常識なんだが、あいつ変なとこ生真面目だからな」
「ボクがなんとかするよ」
「何とかするって?」
「陶芸教室で焼窯使うだろう、アレはガス窯だからガス中毒かなんかの事故に見せかければうまくいくだろう」
野中とは陶芸教室の指導員のことだ。
話している二人のうち一人は、宿にチェックインした時応対してくれた、支配人の声だった。
相手の方は誰だか分からないが、この宿の人間であることは間違いなかった。
話の内容が穏やかでないので、関わりを持つのは危険だと思ったAは、その場をそっと離れて、別の浴場へ足を向けた。
翌朝食事を済ませたAは窯場に向かった。
早く陶芸をやりたいという気持ちに加えて、夕べの話も気になり、予定時間より早く着いた。
指導員の野中は陶芸教室の準備をしていた。
「おはようございます」
「教室に参加の方ですか?」
「はい」
「早いですね、まだ準備してますから、ちょっと待っててもらえますか?」
「分かりました、じゃ、その辺をうろついてます」
Aはそう言うと、作業場を出て庭を散策した。
作業場の隣が窯のあるプレハブだった。
Aは、窯がどんなものなのか気になって、プレハブを覗いてみた。
窯は2基あった。
とても大きなもので人間が入れそうなくらいのサイズだった。
Aは小屋の窓ガラスが少し暖かいのに気がついた。
窯の扉は開いていたが、夕べ作品でも焼いたのかも知れないと思った。
Aはその扉の下に5ミリほどの丸い玉が数個乱雑に落ちているのを見つけた。
汚れているが、やや緑色を帯びていた。
どこかで見た玉のような気がした。
陶芸教室が終わり、チェックアウトしたAは夕べのことが気になり、それとなく支配人を受付付近で探したが見当たらなかった。
そこへ、料理人と思われるでっぷりと太った男がやってきた。
受付で事務員と話す内容をそれとなく聞いていると、どうやら支配人を探しているようだった。
話の様子ではその料理人は料理長のようだ。
そしてその声は、夕べ支配人と話していた相手のものだった。
翌朝、新聞を手にしたAは、社会面に湯河原温泉で宿の支配人失踪の記事を見つけた。
あの支配人だった。
Aは思い出した。
チェックインの時、支配人が手首に数珠をしていたのを。
それは翡翠のようだった。
窯の前に乱雑に落ちていたのはその珠だったのだ。
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発行元:飄現舎 代表 木村剛
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